「私達が立っている場所」(錬成現代文)が、「真正の学び」に認定!

2022年09月06日(火)


 母校では、今宮の名物授業として3年の国語科学校設定科目「私達が立っている場所」(小山秀樹教諭)が20年以上実施されて来ましたが、このたび石井英真編著「高等学校 真正のまなび 授業の深み」―授業の匠たちが提案するこれからの授業―(学事出版)に取り上げられました。卒業生に実施したアンケートを中心に小山先生が授業のありようをまとめられています。(一部抜粋します。)





 

「私達」の授業を検証(アンケート結果から)

 
「私達」の学習が日常生活に生きる「ことば」を鍛える学習である限り、学びの成果は、受講者のなかに確かな「ことば」として生成、蓄積されなければならない。その「ことば」のひとつひとつを受講生から聞き、知ることができれば、これからの授業を確信して進めることができる。遠い将来に生きると信じて展開した授業に、また今後展開される授業にそんなかけがえのない「ことば」を与えたいと考えた。私はそんな気持ちから、卒業した受講者にアンケートを送った。自由記述から受講者の回答を見ていくことで「私達」の授業を検証してみたい。
ⅰどんな授業だったか
 a 「私達が立っている場所」を受講して、投げ出したくなることが正直何度もありました。筆者の言いたい事や考えている事を、何度読み返してもなかなか理解できなかったり、イメージとしては浮かんでも、うまく言葉にしてグループのメンバーに伝えられなかったり。何度も何度も、諦めたくなりました。でも、逃げませんでした。ここで逃げたら、この先逃げ続けることになると思ったからです。どこにいても「言葉」というものが絶対についてくる。言葉から逃げるというのは人と向き合うことから逃げるのと同じなんじゃないかと思いました。だから「今もこの先も逃げない」と、この授業を受講した時に心に誓ったんです。
 b 『私達』は一言で言えば、よく考える授業であったと思います。後にも先にも、『これでもか』と考えた授業はこれが初めてと言っても過言ではない気がします。卒業後、このような授業があったという話は他の人からは聞かないので、自分は恵まれた環境にいたと感じました。卒業後、人と議論をする際は、相手の話をじっくりと聞き、その考えを理解したうえで、ズレが生じないよう、自分の考えを話すようになりました。また自分の考えも、発言する前に相手に伝わりやすいかどうか考えるようになりました。『思考する』ことが、この授業で一番身についたことだと感じています。
 c  話し合いでうまく意見の伝えられないもどかしさ、限られた時間での活動、Q&Aの恐怖や、発表の緊張…。 大変なこともたくさんありましたが、すごく達成感がありました。あれだけ必死にグループで学習する授業は、ないと思います。受験のためだけにした勉強は、正直ぽろぽろと忘れていっています。でも私達の授業で学んだことは、些細なことまで覚えています。これって、すごく大切なことなんじゃないかなと思います。
 
理解したことや考えたことをことばとして伝えることの難しさに直面し、悩み、もがいた後に達成感を持って成果を得たことがうかがえる。それは、具体的な学びの場面として記憶され、蓄積されている。
ⅱどんな態度・姿勢・考え方が身についたか
 e まず、なによりもレジュメの作り方、プレゼンの仕方を身につけることができました。大学でも発表の機会は多々ありますが、レジュメを作るときの根本は今でも高校の時とほぼ同じです。そして同じ班で発表をした人とは目指した大学が同じだったこともあり、最終的には違う大学になりましたが今でも仲良くやっています。 そのような人と会うと話題になるのが「私達」のことです。
 f 「私たち」での学びは、そのまま大学での学びで通用しました。演習はもちろん、他大学の生徒と自主ゼミを作って語り明かした時でもいつも脳裏には「私達」での激しい討論がありました。もちろん学問だけでなく、サークル等の人間関係においても「私達」は出てきます。まず何事も「真剣」に考え、取り組むことができるのです。「私達」では抽象的な事柄を多く学びましたが、それが現実と関係ないかというとそうではなく私の「考え方」の支えとなっていたので人間関係で迷った時も偽りなく人とぶつかり合って接することができました。
 
学習の方法や得た達成感が以降の学習に対しての考え方や学習の態度として自分自身のものになっている。それは、これから出会う課題に対して取り組む態度ともなっている。
ⅲことばで生きるということ

 g この授業を受けたことは、今の自分に極めて影響しているように思えます。本を読むことで得られるものというよりも、もっと人というものがわかったような気がします。同じ作品を読んでいるのに人によって捉え方が様々で、同じ人間なのに違う。改めて、強く感じました。この授業は、生半可では通用しないくらい内容が高度で充実していました。もちろん小山先生も魅力的で、私達は恵まれていました。だけど、自分の1年間の記憶は表面的でしかなかった。本当に失礼で、やはり、この授業はやる気が凄くある人が対象であるのに、結果、自分は単位が取れればいいに終始していました。そうであるのに、得たものが非常に大きく、まさに今の自分ができあがり、視野が広がり、いろいろな考えができるようになりました。 
 h 「本当にそうなのか?」の思考を、もはや意識的にではなく、日常的に行うようになったこと、これは私の中で「私達」が生き続けていることの何よりの証拠であると、日々感じている。
 i 私は今、法学部ですが、法律が作られた目的などで民主主義の考え方があげられることがとても多いです。例えば、「権利の上に眠るものは保護に値しない」という言葉は民法を学ぶ上でよく使われます。これはこの言葉だけ聞いても意味はわかりますが、やはり丸山真男の「日本の思想」を読んだ上で聞くのとは理解の深さがかなり変わってくると思います。このように1つの事柄でもその根本となる考えを知っているかどうかで、新しく得た知識をどこまで自分のものとして理解できるかが大きく左右されます。「私達」はこの根本となる考えを扱い、また新たに知っていく機会を与えてくれたと思っています。
 j 「私達」での学びの経験は、大学で度々訪れるその場面で、私を多弁にさせるより、むしろ寡黙にさせたように思う。もちろんそれは、考えることを放棄したからではなく、むしろ「考えを尽くした上での言葉」の重さ、つまりその場の思いつきで浮かぶ言葉は軽く、それらはいくら集めたところでたいした重さにはならないが、考えに考え抜いた上での言葉は、たとえ一言でもずっしりと響くということを「私達」で身をもって学んだからである。実際、大学の授業における議論の中で、私が絞り出した、たった一言がその後の議論の方向やテーマを決定付けたときは、「考えること」の重要さを改めて思い知るとともに、「私達」でやっていたことが報われたようでうれしかった。
 
ことばで人間や社会を理解すること、またそれらとつながっていくことを確信できているような文章である。ことばを手がかりに今後も向き合うことができるたくましさも感じられる。
| post by ホームページ管理

コメントする